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1奇跡の意味

原理35の解説

Miracles are expressions of love, but they may not always have observable effects.

Kenneth Wapnickの解釈を要約します。

ここは重要な部分です。人が陥りやすい過ちは、結果を求めることです。傷が癒えないから自分は失敗した、腫瘍が消えないから自分はよいヒーラーでないと考える過ちです。結局、肉体を本物であるとする罠に陥っています。

実在しないものを本物として認めない

「コース」では、誤りを本物として扱わないように警告します。ここは重要なところです。「コース」では罪を認めません。わたしたちは、誤りを何とかしなければならないと思い込む。誤りを認め実在にしているのです。肉体のレベルで癒さなければならない問題があると思い込むとき、不完全が実在するとしているのです。

あなたや誰か他の人を光で包むというのも誤りが実在すると認めている例です。暗闇から守らなければいけないと言っているようなもので、暗闇を本物であると認めることになるからです。実在しないものに対して戦う必要はありません。

手放したくないものを正当化しない

でも、わたしたちには手放したくないものがあります。

光で保護されることが好きなら、それを手放したくありません。駐車場所に導いてくださいと祈りたいなら、それを手放したくないと思うでしょう。ここでは、手放せと言っているのではありません。ただ、そういうものが欲するものを与えてくれるわけではないことを承知するようにと言っているのです。

「コース」では、怒ってはいけないとは言っていません。怒りを正当化するべきでないと言っているのです。誰にもエゴがあるので、怒ることもあるでしょう。憤慨したり怒ったりしたとき、それを正当化しないようにということです。

これは、後の第三章に出てくる犠牲を払わずに贖罪することと同じ意味です。神が苦しませるために神の子を創造したという誤った解釈を正当化するために、考え方をまったく逆にしなければならなかった、つまり、わたしたちの罪の意識の投影を正当化するために、神学が作られたということです。

しかし、神学にしろ、心理学にしろ、哲学にしろ、経済論にしろ、エゴの投影を正当化するために構築するなら、問題が起きるでしょう。自分を光で包むのは何も悪いことではありませんが、それを奇跡の思考の一部にするとき、間違いが起きるのです。

レベル2ー手放さなくてもよいが、正当化しない

レベル1で話すとき、すべてはとて難しくに見えます。というのも、このレベルでは妥協がないからです。ニセモノはどこまでいっても虚偽で、真実は決して変わることはありません。この世界にあるものはすべてニセモノであるから、そこに心をつぎ込むべきではないとします。

でも、この肉体の世界に住んでいる者で、この世界につぎ込んだものすべてを完全に手放すことができる人はいません。必ず、何か手放せないものがあります。そこで、もっと寛大な見方をするのがレベル2です。しかし、このレベルでも妥協しないものがあります。それは誤りを実在として扱わない、エゴの誤った見方を正当化しないことです。

誰にもエゴはあり、それが悪いというのではありません。悪いのは、神がそう指示したというように正当化しようとすることです。それよりも、光で包むとエゴが安心する、聖霊に駐車場に導いてくださいと祈るとエゴが喜ぶと単純に認める方がずっとベターです。

肉体のことは重要視しない(大げさに扱わない)

肉体に関することに熱中するのは誤りを本物と認めることにならないかという質問に対して、レベル1ではそうであるが、レベル2では、わたしが本当に望むものでないというレッスンを学ぶ方法になると回答していました。ただ、聖霊よりもエゴに従って自分を欺き、自分や他の人を傷つけたり、罪の意識をさらに強めるようなことに関わらないように気をつけねばなりません。

「コース」では、何でもやりたいことをしてもよいが、それを神の国に持ち込まないようにと教えます。一大事にしないようにと。

正当化しようとしないことです。そして、次のように単純に認めることです。わたしにはまだ肉体があるから、それに伴うニーズがあり、喜びもあります。苦痛を与えるものは避けたいと思います。肉体がある限り、これはついてまわりますが、ただそれだけのことで、他に意味はありません。

肉体があるからその快楽を求めますが、執着になると危険です。たとえば、この人と一緒にいないと幸せになれない、この食べ物が食べられないなら幸せでない、あの車がないと不幸だといったことです。こうなると、こうしたものを手に入れることが神の国に入ることになり、手に入らなければ、地獄に落ちることになってしまいます。

こうした罠に陥ってしまうのは、形はどうであれ、特別な関係を扱っていることの現れです。重要でないことは大げさに扱わない。この世界での一大事は罪の意識で、それに対する答えは赦しです。ここが重要なことです。

肉体の復活の是非

「コース」では肉体の復活についてどう言っているかという質問に対して、肉体は死なないから復活はあり得ない、病気にならないから癒されることもない、かつて死んだこともないから死から蘇ることもないと応えています。肉体は何もしません。 復活するのはマインドです。復活は、死の夢から醒めることです。

イエスは、わたしたちがいる悪夢の世界から覚醒しました。イエスの言っていることが理解できなかった周囲の人たちの目には、イエスが死から蘇ったように映りました。イエスの存在が感じられたので、2と2を足して5にしてしまったのです。イエスは彼らが受け入れることができるような形で現れました。 イエスと見分けることができる形、肉体として現れることです。

しかし、真実は、イエスの復活は、死、分離、殺人、攻撃、暴力などの悪夢からの覚醒だったのです。肉体の復活と言うこと自体、肉体が死んだと認め、肉体を実在にしています。エゴの世界の現実で最も強力な証人は死です。死は、肉体が生きたことの証だからです。肉体が生きたのなら、エゴも生きなければならず、エゴの思考システム全体も正しいに違いないとなるからです。

イエスが教えたのは、肉体が死なないこと、肉体が蘇らないこと、肉体には何の関係もないことです。したがって、その肉体に起きたことにかかわらず、イエスは常にわたしたちのそばにいます。

福音書にあるイエスの復活について

福音書にあることがどこまで実際に起きたことなのかは分かりません。4つの福音書にあるイエスの復活は、互いに矛盾しています。誰がいつイエスを見たのかというような基本的な事実が相反しているのです。一致した見解は、歴史的な事実というよりは、当時、さまざまなキリスト教教会で出現しつつある神学論の違いだろうというものです。

こうしたことから、イエスが何をして何をしなかったかを明らかにしようとするのは困難です。 そもそも誰も知らないわけですから。 福音書には歴史的事実は少なく、神学論や人々が望む逸話が沢山あります。「コース」はこれについて何のコメントもしていないし、扱っていません。

奇跡の結果について

Miracles may not always have observable effects.

奇跡がもたらす重要な効果があります。それは、平和です。マインドをイエス(聖霊)に任せるとき、攻撃したりされたりする人を見ることはなくなり、平和な心になります。その後のことは、聖霊とその人の間のことで、わたしは自分のやるべきことはしました。わたしは平和というギフトをその人に与えました。相手は、それを受けとるかもしれないし、受け取らないかもしれません。だから、奇跡には目に見える効果が現れないことがあるという意味なのでしょう。

第三部の指導要項に、これと同じことを指摘している箇所があります。3つの質問をしているところで、その一つが「癒しは繰り替えされるべきか?」というものです。誰かが癒されていないと見える状況のときに出てくる質問です。ここで留意することは、誰かが癒されていないと見るとき、肉体のレベルで物事をみているので、肉体を実在であるとしていることです。

また、ワークブックの別のレッスンにある“When I am healed, I am not healed alone” と同じことが、ここで示唆されています。つまり、すべてのマインドが繋がり、一つであり、 ホログラムのようになっているので、わたしが平和を与えれば、わたしを通して広がり、他のすべての人たちに届くことです。多くは会ったこともない人たちです。さらに、直線的に伸びる時間はないので、この癒しはあらゆる次元を通して起こります。もちろん、わたしたちには知る由もないことです。わたしたちがやるべきことは、自分のマインドを癒すことです。その後のことは、聖霊に任せればよいのです。

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