人生はいつでも変えられる!
3純真無垢な知覚

第3章VI節 裁きと権威者問題

VI. Judgment and the Authority Problem

We have already discussed the Last Judgment, but in insufficient detail. After the Last Judgment there will be no more.Judgment is symbolic because beyond perception there is no judgment.

When the Bible says “Judge not that ye be not judged,” it means that if you judge the reality of others you will be unable to avoid judging your own.

わたしたちはすでに「最後の審判」について考察しましたが、詳細が不十分でした。「最後の審判」の後には、もはや裁きはありません1知覚を越えたところに裁きは存在しないので、裁きはあくまでも象徴に過ぎません。

聖書に「汝ら人を裁くな、裁かれざらんためなり」とあるのは、あなたが他の人の現実を裁くなら、自分自身の現実を裁くことを避けることができないだろうという意味です2

1:  「最後の審判」の後、つまり知覚が不可能になったとき、裁きはあり得ません。前章から続いていますね。

2:  この聖書からの引用部は、一般に、他の人を裁くと自分が神に裁かれると解釈されていますが、それを訂正しています。神が罰を与えたり裁いたりすることはなく、人を裁くことは自分を裁くことになる、わたしたちは一体だということです。

 

The choice to judge rather than to know is the cause of the loss of peace. Judgment is the process on which perception but not knowledge rests.

I have discussed this before in terms of the selectivity of perception, pointing out that evaluation is its obvious prerequisite. Judgment always involves rejection.It never emphasizes only the positive aspects of what is judged, whether in you or in others.

What has been perceived and rejected, or judged and found wanting, remains in your mind because it has been perceived.One of the illusions from which you suffer is the belief that what you judged against has no effect. This cannot be true unless you also believe that what you judged against does not exist. You evidently do not believe this, or you would not have judged against it.

In the end it does not matter whether your judgment is right or wrong. Either way you are placing your belief in the unreal. This cannot be avoided in any type of judgment, because it implies the belief that reality is yours to select from.

知ることよりも批判することを選択するのが平安を失う原因です。批判は知覚が基盤にするプロセスで、知識が基盤にするプロセスではありません。

これについて以前に説明しました。そのとき、知覚が選択的であるという点で、明らかに評価がその必要条件であることを指摘しました。批判には必ず拒絶が伴うのです1批判は、あなたに属するものであれ、他人に属するものであれ、批判の対象のポジティブ面だけを重視することは決してありません2

知覚して拒絶したこと、あるいは批判して欠けているのが見つかったことは、知覚されたために、あなたのマインドに残ります3あなたに苦しみをもたらす幻想の一つは、批判の対象が何の影響ももたらさないと信じることです。これは、批判の対象が存在しないということを同時に信じていないかぎり、あり得ることではありません。そう信じていないのは明らかで、さもなければ、それについて批判したりしなかったでしょう4

最終的には、あなたの批判が正しいか間違っているかは問題ではありません。どちらにしても、あなたは幻想に信頼を置くことになります。批判はどんな種類であれ、これから逃れることはできません。なぜならば、現実は自分の批判で選んでくるものと信じていることを暗に示しているからです5

1:  知覚は選択的です。そのためには、まず批判して、あるものを選択し、他を拒絶するのです。‘judgement’(批判)は、真偽、善悪、美醜といった点でどちらになるかを判定することだからです。

2:  何かを批判するとき、まったくポジティブに批判することはできません。必ずや、拒絶する局面を見出します。

3:  拒絶すれば、拒絶した対象から解放されると思っても、知覚したためにマインドに残ります。影響力がなくなるわけではないのです。

4:  批判すること自体、その対象が存在すると信じていることになります。批判しても、自分のマインドには存在します。だから、拒絶しても無駄ということです。

5:  ‘select from’の‘from’がイタリック体で、「~から選択する」の~は‘yours’を指しています。何が現実で何が現実でないか自分で判断したものの中から選択するという意味です。

 

You have no idea of the tremendous release and deep peace that comes from meeting yourself and your brothers totally without judgment.

When you recognize what you are and what your brothers are, you will realize that judging them in any way is without meaning. In fact, their meaning is lost to you precisely because you are judging them.

All uncertainty comes from the belief that you are under the coercion of judgment. You do not need judgment to organize your life, and you certainly do not need it to organize yourself.

In the presence of knowledge all judgment is automatically suspended, and this is the process that enables recognition to replace perception.

批判せずに自分自身やあなたの兄弟に出会うことから来るこの上ない解放感と深い心の平安がどんなものか、あなたには見当もつきません。

自分や兄弟が本当は何者なのかを認めるとき、形はどうであれ批判するのは意味がないことに気づくでしょう。実際、あなたが批判するというまさにそのことから、その意味はあなたにとって失われています1

あらゆることに確信を持てないのは批判を強制されているという信念から起こります。生活を組み立てるのに批判は必要ありませんし、自分の行動を整えるのに必要がないのは確かです。

知識の存在の前には、あらゆる批判は自動的に一時停止します。これが、知覚する代わりに、真価を認めることができるようになるプロセスです。

1:  批判をすることで自分なり兄弟なりを理解しようとしても、それは出来ないと言っているのです。

 

You are very fearful of everything you perceive but have refused to accept. You believe that, because you have refused to accept it, you have lost control over it. This is why you see it in nightmares, or in pleasant disguises in what seem to be your happier dreams.

Nothing that you have refused to accept can be brought into awareness. It is not dangerous in itself, but you have made it seem dangerous to you.

あなたは、自分が知覚しながら受け入れるのを拒絶したあらゆる事をとても恐れています。あなたはこう信じています。受け入れるのを拒絶したため、それをコントロールする力を失ってしまったと1。だから、あなたが悪夢の中でそれを見たり、または、もっと幸せな夢に見える中の心地よい見せかけにそれを見たりするのです2

あなたが受け入れるのを拒絶したものは、何も意識に上らせることはできません。そのもの自体は危険ではありませんが、あなたがそれを自分にとって危険に見えるようにしたのです。

1:  受け入れるのを拒絶した、つまり批判して自分のマインドから追い出したと思って、自分の支配下にないものはコントロールできないと信じているのです。

2:  批判して拒絶しても、潜在意識に押し込めたので、悪夢で見たり、もっと幸せな夢の中に見たりします。この夢は、寝ているときの夢と起きているときに経験する幻想の両方に当てはまります。‘pleasant disguises’は、恋愛のような経験を言っているのでしょう。恋に恋するような恋愛だと、初めは幸福の絶頂にいても後で失恋の痛手を受けることになります。

 

When you feel tired, it is because you have judged yourself as capable of being tired. When you laugh at someone, it is because you have judged him as unworthy. When you laugh at yourself you must laugh at others, if only because you cannot tolerate the idea of being more unworthy than they are.

All this makes you feel tired because it is essentially disheartening. You are not really capable of being tired, but you are very capable of wearying yourself. The strain of constant judgment is virtually intolerable. It is curious that an ability so debilitating would be so deeply cherished.

Yet if you wish to be the author of reality, you will insist on holding on to judgment. You will also regard judgment with fear, believing that it will someday be used against you. This belief can exist only to the extent that you believe in the efficacy of judgment as a weapon of defense for your own authority.

あなたが疲れたと感じるとき、自分が疲れることもあると批判したからです。あなたが誰かを笑うとき、相手を値打ちがないと批判したからです。あなたが自分を一笑するとき他の人を一笑しているに違いありません。自分が彼らよりも値打ちがないという考えに耐えられないからというだけであっても。

これだけのことで疲れを感じるのは、本来、落胆させるものだからです。あなたは、実際には疲れることがないはずですが、自分を疲弊させることは十分にできます。ひっきりなしの批判による緊張は、実質的に耐えられないものです。これほど消耗させる能力がこの上なく大切にされているのは、興味深いことです。

しかしながら、あなたが現実の創造者になりたければ1、批判にしがみつくのを止めないでしょう。また、いつか批判が自分に向けられるだろうと信じて、それを恐れと見なすでしょう。この思い込みは、批判が、自分自身の権限を防衛する武器として有効だと信じる限りにおいてだけ、存在が可能なのです。

1:  神に代わって自分がすべてを仕切らなければならないと思うから批判にしがみつく、‘authority problem’(権威者問題)です。

 

God offers only mercy. Your words should reflect only mercy, because that is what you have received and that is what you should give.

Justice is a temporary expedient, or an attempt to teach you the meaning of mercy. It is judgmental only because you are capable of injustice.

神は情けだけを与えます1あなたの言葉は情けのみを反映したものでなければなりません。情けこそがあなたの受け取ったもので、そしてあなたの与えるものであるべきだからです。

(公正な)裁きは一時的な便宜、あなたに情けの意味を教える予行です2裁きが判定的であるのは、もっぱら、あなたに不公正の傾向もあるという理由からです。

1:  ここで使われている‘mercy’は「情け」の意味です。神は決して糾弾しません。情けだけです。だからわたしたちも、兄弟たちを糾弾することなく、情けをもって対応しなければならないというのです。

2:  ここの‘justice’は、その後の‘injustice’に対応しています。公正な裁きは一時的な便宜で、まだ通過地点です。最後に行き着く所では一切の裁きがありません。

 

I have spoken of different symptoms, and at that level there is almost endless variation. There is, however, only one cause for all of them: the authority problem. This is “the root of all evil.”

Every symptom the ego makes involves a contradiction in terms, because the mind is split between the ego and the Holy Spirit, so that whatever the ego makes is incomplete and contradictory. This untenable position is the result of the authority problem which, because it accepts the one inconceivable thought as its premise, can produce only ideas that are inconceivable.

わたしは数々の異なる症状1を話してきました。そして、そのレベルでは、バリエーションはほぼ無限です。しかし、これらすべての原因は一つしか存在しません。それは権威者問題2です。これこそが「諸悪の根源」です。

エゴが作る症状はどれも表現の矛盾を伴います。それは、マインドがエゴと聖霊の間で分離しているため、エゴが作るものは何であれ不完全で矛盾するからです。この防御ができない立場は権威者問題から発した結果であり、それは、ありえない思考を前提として受け入れるため、ありえない考えしか産み出すことができません。

1:  不安、心配、恐れなどを指しています。

2:  ‘the authority problem’は、わたしたちを創造したのは神で、本来完全に創られているにもかかわらず、自分で創造したと取り違え、そのためにさまざまな不完全に見える症状を現すのです。

 

The issue of authority is really a question of authorship. When you have an authority problem, it is always because you believe you are the author of yourself and project your delusion onto others. You then perceive the situation as one in which others are literally fighting you for your authorship. This is the fundamental error of all those who believe they have usurped the power of God.

This belief is very frightening to them, but hardly troubles God. He is, however, eager to undo it, not to punish His children, but only because He knows that it makes them unhappy.

God’s creations are given their true Authorship, but you prefer to be anonymous when you choose to separate yourself from your Author. Being uncertain of your true Authorship, you believe that your creation was anonymous. This leaves you in a position where it sounds meaningful to believe that you created yourself. The dispute over authorship has left such uncertainty in your mind that it may even doubt whether you really exist at all.

権威者問題というのは、実のところ、原作者は誰かという疑問のことです。権威者問題があるとき、必ずや自分の原作者は自分であると信じているため、その妄想を他者に投影します。そして、自分の原作者について、他者が文字通り、あなたと競っている状態にあると解釈します。これが神の力を奪ったと信じる人たちの皆が犯す基本的な誤りです1

この思い込みは、彼らにとって非常に恐ろしいのですが、神を悩ませることはまずありません。しかし、神は、そのことで神の子たちを罰するのではなく、取り消すことを熱望しています。それは、ひとえに、神の子たちがそのことで不幸になっているのを知っているからです。

神の創造するものには真の原作者が与えられていますが、自分自身をその原作者(神)から離すとき、あなたは原作者不明を選ぶことになります。こうして、自分が自分を作ったと信じるのが意味があるように思われる場所に自分を放置します。誰が原作者なのかの議論により、あなたのマインドはとても確信が持てない状態に陥り、一体自分は存在しているのかと疑うことさえあります。

1:  自分の原作者は自分であると思って神の力を奪ったと信じます。そうすると、自分で自分を防御せなばならず、他者が敵に見えるのです。

 

Only those who give over all desire to reject can know that their own rejection is impossible.

You have not usurped the power of God, but you have lost it. Fortunately, to lose something does not mean that it has gone. It merely means that you do not remember where it is. Its existence does not depend on your ability to identify it, or even to place it.

It is possible to look on reality without judgment and merely know that it is there.

拒絶したいという望みをすべて諦める1人たちだけが、自分を拒絶することが不可能だと知ることができます。

あなはた、神の力を奪ったのではなく、神の力を失ってしまったのです。幸いにも、何かを失うというのは、それが無くなってしまったという意味ではありません。どこにあるのかを覚えていないというだけの意味です。あなたが識別できるか、あるいは思い出すことができるのかということにすら、神の力の存在が左右されることはありません。

批判せずに現実を見つめ、ただそこにあると知ることは可能です。

1:  拒絶したいという望みをすべて諦めるとは、「批判せずに現実を見つめる」と同じ意味です。

 

Peace is a natural heritage of spirit. Everyone is free to refuse to accept his inheritance, but he is not free to establish what his inheritance is.

The problem everyone must decide is the fundamental question of authorship. All fear comes ultimately, and sometimes by way of very devious routes, from the denial of Authorship.

The offense is never to God, but only to those who deny Him.To deny His Authorship is to deny yourself the reason for your peace, so that you see yourself only in segments. This strange perception is the authority problem.

平安はスピリットが生まれながらに受け継いだ資産です。誰でもそれを拒んで受け入れないことは自由ですが、自分の受け継いだものが何であるかを決める自由はありません。

すべての人が決断しなくてはいけない問題というのは、権威者に関する根本的な疑問です1あらゆる恐怖は、結局のところ、そしてときには非常に曲がりくねったルートを経由して、真の権威者(神)を否定することから起こります。

それで神を怒らせることは断じてありませんが、神を否定する人だけを不快にさせます2神の権威を否定することは自分に平安の根拠を否定することで、つまり、自分自身を分裂した断片でしか捉えないことになります。この奇妙な知覚がまさに権威者問題なのです。

1:  原作者が神であると決断していれば、権威者の問題は起こらず、恐怖も起こりません。神が創るものはすべて完全で平安をもたらすばかりのはずだからです。

2:  神を否定する人とは、わたしたちのことです。

 

There is no one who does not feel that he is imprisoned in some way. If this is the result of his own free will he must regard his will as not free, or the circular reasoning in this position would be quite apparent.

Free will must lead to freedom. Judgment always imprisons because it separates segments of reality by the unstable scales of desire. Wishes are not facts. To wish is to imply that willing is not sufficient. Yet no one in his right mind believes that what is wished is as real as what is willed.

Instead of “Seek ye first the Kingdom of Heaven” say, “Will ye first the Kingdom of Heaven,” and you have said, “I know what I am and I accept my own inheritance.”

自分が何らかの形で閉じ込められていると感じない人はいません。これが自身の自由意志の結果であるなら、その人は自分の意志が自由でないと見なさなければなりません。つまり、この状況で循環論法になっているのは、火を見るより明らかです。

自由意志は自由へ導くべきものです。批判すると必ず捕われの身になるのは、現実の域を願望という当てにならない尺度で分離するからです1望みは事実ではありません。望むとはやる気だけでは十分でないことをほのめかすことです。さらに、正しいマインドの状態にある人で、望んだことが意志で決定したものと同じくらい現実であると信じる人はいません。

「まず神の国を求めなさい」と言う代わりに、「まず神の国を意志で決定しなさい」と言いなさい。そうすれば、あなたは、「わたしは自分が何者であるかを知っているので、自分の受け継いだ資産を受け入れます」と言ったことになります2

1: 閉じ込められているのは、自分が選択したことではないと思いたいために、批判して人のせいにし、捕われの身になるのです。自分は~して自由になりたいという願望で、他から分離します。事実ではない、当てにならない尺度で現実を推し量っています。

2:  必要なのは意志で神の国を決定すること、つまり、神の創造したものの本質(平安)を宣言することです。

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