人生はいつでも変えられる!
3純真無垢な知覚

第3章V節 知覚の超越

V. Beyond Perception

I have said that the abilities you possess are only shadows of your real strength, and that perception, which is inherently judgmental, was introduced only after the separation. No one has been sure of anything since.

I have also made it clear that the resurrection was the means for the return to knowledge, which was accomplished by the union of my will with the Father’s.

We can now establish a distinction that will clarify some of our subsequent statements.

これまで、あなたの有する能力はあなたの本当の強さの影に過ぎず1、知覚の本質は批判的で分離の後に導入されただけであるということを述べてきました。分離以来、誰一人、何についても確信が持てなくなっています。

また、復活が知識へ戻る手段であり、それは、私の意志と神の意志を一つに結ぶことで達成されたことを明示してきました2

ここでようやく、これから述べる幾つかのことが明確になるように、ある区別を確立することができます。

1:  “your real strength”は創造する力のことで、知覚という能力はその影に過ぎないということです。

2:  復活と知識の関連がここで初めて出てきました。キリストの復活が贖罪を確立したということは第3章1節にあるので、(復活によって確立された)贖罪が知識へ戻る手段だと仮定されます。キリストは自らの意志を神の意志と一つにすることで贖罪を為し得、その結果、復活を果たしたのです。

 

Since the separation, the words “create” and “make” have become confused.

When you make something, you do so out of a specific sense of lack or need. Anything made for a specific purpose has no true generalizability. When you make something to fill a perceived lack, you are tacitly implying that you believe in separation.

The ego has invented many ingenious thought systems for this purpose. None of them is creative. Inventiveness is wasted effort even in its most ingenious form. The highly specific nature of invention is not worthy of the abstract creativity of God’s creations.

分離以来、「創造する」と「作る」という言葉が混同されるようになりました。

あなたは何かを作るとき、欠乏や不足という特定の感覚からそうするのです。何でも特定の目的で作られたものには、真の普遍的な可能性はありません。あなたが欠乏を知覚し、それを満たすために何かを作るとき、分離があるとの信念を暗に示しています1

エゴは、この目的のために多くの巧妙な思考システムをでっち上げしました2その中で創造的なものは何一つありません。でっち上げは、最も巧妙な形でさえも無駄な努力です。でっち上げの高度な特異性は、神の創造物の深遠な創造性に値しません。

1:  特定の目的で作られたものは、その他の用途で使うことはできません。別の目的では、別のものを作らなければならないというように、物質界では次から次に分離が知覚されます。

2:  ‘many ingenious thought’(多くの巧妙な思考システム)は、さまざまな学問や説を指しています。これは、精神界の分離ですね。

 

Knowing, as we have already observed, does not lead to doing.

The confusion between your real creation and what you have made of yourself is so profound that it has become literally impossible for you to know anything.

Knowledge is always stable, and it is quite evident that you are not. Nevertheless, you are perfectly stable as God created you. In this sense, when your behavior is unstable, you are disagreeing with God’s Idea of your creation. You can do this if you choose, but you would hardly want to do it if you were in your right mind.

知ること、それはすでに観察してきたように、行動へ導くことはありません。

創造された本当のあなたと、自分で作ったあなたとの間にある混同はとても深く、文字通り、あなたが何を知るのも不可能にしてしまいました。

知識はいつも安定しています。そして、あなたはそうでないことはかなり明白です。それでもやはり、神が創造したままのあなたは、まったく安定しているのです。この意味で、あなたの行為が不安定なとき、あなたを創造した神の想念と一致しません。あなたは選択するならそうすることができますが、正しいマインドの状態にあったなら、そんなことはまず望まなかったでしょう。

知ることが不可能になった背景が説明されている部分です。神が創造したままの本当の自分ではなく、自分で作ったセルフを自分だと思う混同から、行為が不安定になり、常に安定した知識と相容れなくなったのです。

 

The fundamental question you continually ask yourself cannot properly be directed to yourself at all. You keep asking what it is you are. This implies that the answer is not only one you know, but is also one that is up to you to supply. Yet you cannot perceive yourself correctly.

You have no image to be perceived. The word “image” is always perception-related, and not a part of knowledge. Images are symbolic and stand for something else. The idea of “changing your image” recognizes the power of perception, but also implies that there is nothing stable to know.

あなたが絶えず自分に問う根本的な質問は、そもそも、あなた自身に適切に向けられることはありません1あなたは、自分が何者かを問い続けます。これにより、答えはあなたが知っているものであるというだけでなく、提示するのはあなた次第の答えであることも暗示されています2それでも、あなたは自分自身を正しく知覚することはできません。

あなたは知覚されるイメージを持っていません3「イメージ」という言葉はいつも知覚に関連するもので、知識の一部ではありません。イメージは象徴的で、何か別のものを表しています。「自分のイメージを変える」という考えは知覚の力を認めますが、知るべき安定したものが何もないこともまた暗示しています。

1:  自分が何者かという質問を自分に対して適切に向けることができないのは、本当のセルフではなく、分離後の知覚されるセルフについて問うことになるからです。

2:  自分に問うということは、答えを知っているからです。次に、“one that is up to you to supply”‘one’は答えで、‘that is up to you to supply’が修飾しています。つまり、「提示するのはあなた次第の答え」です。どういうことかというと、知覚によって答えを提示しようとするため、定まっていません。どのように知覚するかはあなた次第であり、自己のイメージは変化するからです。安定していません。

3:  本当のセルフを知覚することはできないということです。

 

Knowing is not open to interpretation. You may try to “interpret” meaning, but this is always open to error because it refers to the perception of meaning. Such incongruities are the result of attempts to regard yourself as separated and unseparated at the same time. It is impossible to make so fundamental a confusion without increasing your overall confusion still further.

Your mind may have become very ingenious, but as always happens when method and content are separated, it is utilized in a futile attempt to escape from an inescapable impasse. Ingenuity is totally divorced from knowledge, because knowledge does not require ingenuity. Ingenious thinking is not the truth that shall set you free, but you are free of the need to engage in it when you are willing to let it go.

知ることに解釈の余地はありません。あなたは意味を「解釈」しようとするかもしれませんが、そうすれば意味の知覚を引き起こすので、いつも誤りにさらされるのです。このような不一致は、自分を分離した存在であると見る試みと分離していない存在であると見る試みを同時に行う結果から来ます1。このような根本的な混乱を犯せば、全体の混乱はさらに増大しないではいられません2

あなたのマインドはとても巧妙になったかもしれませんが、方法と内容が分離しているときに必ず起こるように、逃れられない袋小路から抜け出そうとする無駄な試みに利用されます。巧妙さはまったく知識から切り離されています。なぜなら、知識には巧妙さが要らないからです。巧妙な思考は真実ではなく、あなたを解放しませんが、それを喜んで放そうとするとき、そういった思考に関わりたい要求から自由になります3

1:  自分が神から分離していない存在であると解釈しようとするときでも、分離したセルフの観点で行われます。知覚には、知覚するものと知覚されるものの二者が必要だからです。

2:  こうした根本的な混乱は、意味を解釈しようとすることから起こり、さらに混乱を招くことを言っています。つまり、意味の解釈は役に立たないと。

3:  ‘ingenious thinking’は巧妙な思考で、理論に長け、頭のよさを思わせるものです。でも、それでは袋小路に陥るだけで、本当のセルフは分かりません。まず、理論で理解しようとするのを手放すことを勧めているのです。

 

Prayer is a way of asking for something. It is the medium of miracles. But the only meaningful prayer is for forgiveness, because those who have been forgiven have everything. Once forgiveness has been accepted, prayer in the usual sense becomes utterly meaningless. The prayer for forgiveness is nothing more than a request that you may be able to recognize what you already have.

In electing perception instead of knowledge, you placed yourself in a position where you could resemble your Father only by perceiving miraculously. You have lost the knowledge that you yourself are a miracle of God. Creation is your Source and your only real function.

祈りは何かを求める手段です。それは、奇跡の媒体です。しかし、有意義なのは赦しを求める祈りだけです。なぜなら、赦された人たちはすべてを持つからです。いったん赦しが受け入れられたなら、通常の意味でいう祈りはまったく無意味になります。赦しを求める祈りは、あなたがすでに持っているものを認めることができるようにという要求に過ぎません1

知識の代わりに知覚を選択したことで、あなたは、奇跡的に知覚するときにしか、自らを大いなる父に類似させることができないようにしてしまいました2あなたはあなた自身が神の奇跡であるという知識を失いました。創造があなたの大いなる源泉であり、唯一の本当の役割なのです。

1:  ‘ingenious thinking’(巧妙な思考)を手放して、赦しのための祈りをするように説いているのです。これにより、自分にはすべてがすでにあると認められるようになるからです。だから、赦しを求める祈りは大切で奇跡の媒体なのです。

2:  だから、まず、知覚を正さなければいけないということです。そのために、赦しの祈りが必要です。

 

The statement “God created man in His own image and likeness” needs reinterpretation. “Image” can be understood as “thought,” and “likeness” as “of a like quality.” God did create spirit in His Own Thought and of a quality like to His Own. There is nothing else.

Perception, on the other hand, is impossible without a belief in “more” and “less.” At every level it involves selectivity. Perception is a continual process of accepting and rejecting, organizing and reorganizing, shifting and changing. Evaluation is an essential part of perception, because judgments are necessary in order to select.

「神は人間を神自身のイメージにかたどり、似せて創造された」とあるところは、もう一度解釈し直す必要があります。「イメージ」は「思考」、「似せて」は「似た性質に」と解釈することができます。神は、スピリットを神自身の思考と同じく、そして神自身と似た性質に創造されました。その他には何もありません1

その一方で、知覚の方は、「より多い」とか「より少ない」ということを信じなければ不可能です2あらゆるレベルにおいて選択が伴います。知覚は、受容と拒絶、編成と再編成、移動と変化の継続的なプロセスです。評価は知覚に不可欠な部分です。なぜならば、選択するためには判断しなければならないからです。

1:  すべては神と似た性質で、同等です。違いはありません。

2:  ところが、知覚は、「より多い」とか「より少ない」といった違いを認識して選別しなければならないのです。

 

What happens to perceptions if there are no judgments and nothing but perfect equality? Perception becomes impossible. Truth can only be known. All of it is equally true, and knowing any part of it is to know all of it. Only perception involves partial awareness.

Knowledge transcends the laws governing perception, because partial knowledge is impossible. It is all one and has no separate parts. You who are really one with it need but know yourself and your knowledge is complete. To know God’s miracle is to know Him.

もし判断というものがなく、完全な同等のほか何もなければ、知覚はどうなるでしょうか? 知覚することは不可能になります1真実は知ることでしか得ることはできません。真実のどの部分も等しく真実で、その一部を知ることはそのすべてを知ることになります。知覚だけが、部分的な認識を伴うのです。

知識は知覚を支配する法則を超越します。なぜならば、部分的な知識はあり得ないからです。知識はすべて一つであり、分離した部分はありません。本来、知識と一体であるあなたは自身を知ることだけが必要で、それであなたの知識は完全です。神の奇跡2を知ることは神を知ることになります。

1:  すべてが完全に神と似た性質、つまり同等ならば、判断はあり得ません。そして、知覚は判断に依存するため(前段落)、判断がなければ知覚することは不可能です。

2:  神の奇跡はわたしたち(大いなるセルフ)のことです。自分の大いなるセルフを知れば、神を知ることになるのです。

 

Forgiveness is the healing of the perception of separation. Correct perception of your brother is necessary, because minds have chosen to see themselves as separate.

Spirit knows God completely. That is its miraculous power. The fact that each one has this power completely is a condition entirely alien to the world’s thinking. The world believes that if anyone has everything, there is nothing left. But God’s miracles are as total as His Thoughts because they are His Thoughts.

赦しは、分離の知覚が癒されることです。あなたの兄弟を正しく知覚することが必要なのは、兄弟が別々であると見ることをマインドが選択してしまったからです。

スピリットは神を完全に知っています。それは、スピリットの奇跡を起こす力です。各自にこの力が完全に備わっているという事実はこの世界の考え方にとってまったく異質なものです。この世界では、もし誰かがすべてを持っているなら、あとには何も残らないと信じます。しかし、神の奇跡は神の思考と同じようにすべてを含んでいます。それは、他ならぬ神の思考であるからです。

 

As long as perception lasts prayer has a place. Since perception rests on lack, those who perceive have not totally accepted the Atonement and given themselves over to truth. Perception is based on a separated state, so that anyone who perceives at all needs healing.

Communion, not prayer, is the natural state of those who know. God and His miracle are inseparable. How beautiful indeed are the Thoughts of God who live in His Light! Your worth is beyond perception because it is beyond doubt. Do not perceive yourself in different lights. Know yourself in the One Light where the miracle that is you is perfectly clear.

知覚が続くかぎり祈りの役割があります。知覚は欠乏に基づいているため、知覚する人たちは贖罪を完全に受け入れず、自分を真実に託していません。知覚は分離した状態に基盤を持つため、ともあれ知覚する人は誰もが癒しを必要とします。

祈りではなく、神との交わりが、知る人たちの自然な状態です。神と神の奇跡は切り離すことはできません。神の光に居ます神の思いは、本当になんと美しいことでしょう! あなたの価値は疑いの余地がないので、知覚を超越しています1自分をその他の観点で知覚しないように。あなたという奇跡が完璧に澄み切った場所、その一つの光にいる自分を知りなさい。

1:  ‘beyond perception’、タイトルと同じ部分ですね。ここで、知覚を超越しているのは自分の価値であることが明らかにされています。

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